四苦八苦
- ishigami-clinic149
- 11月17日
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先日、法要で住職方から四苦八苦のお話を聞く機会がありました。四苦八苦とは、元々はお釈迦様が説かれた教えにある言葉で、人生の苦しみを四つに大別したものを「四苦(生、老、病、死)」、それに四つ加えて「四苦八苦」であり、人間が生きている上で避けては通れない根源的な〈苦〉と教えられています(詳細は他のサイトをご参照下さい)。徳川家康公の遺訓にある「人の一生は重荷を負(おひ)て遠き道を行くが如し」も人生は四苦八苦の連続だと言っているようなものだと思います。
今でも四苦八苦は、「作文の宿題に四苦八苦した。」というような使われ方をしていると思います。そして、四苦八苦した肝心な結果はと言えば、四苦八苦して作文ができなかったのではなく、何とか書き終えて提出できたといったように感じられるのは私だけではないと思います。つまり、四苦八苦の先には、完璧ではないがどうにかやり終えた(中には完璧に出来たという人もいるかもしれませんが)といった安堵感・解放感・満足感があるように思われます。
皆様も就職した新人の頃は四苦八苦して頑張られたと思いますが、私にも四苦八苦していた頃の懐かしい一つの思い出があります。今から振り返ってみても研修医の頃は本当に四苦八苦でした(現在でも多かれ少なかれ四苦八苦しながら仕事をしていますが)。何事もスマートにいかず、指導教官や看護婦さんに怒られ助けられの毎日でした。研修2年目の病院での1年間の研修を終え、医局送別会の時に院長の金子先生から、「德永君の車のナンバープレートの番号は498で、私はそれを四苦八苦と読んでいた。1年間の研修を終えた今、彼の車のナンバープレート498をよくやったと読み替えてみたい。」との言葉を頂いたことを本当に感謝の気持ちで覚えています。今から振り返っても、優秀な研修医だったとはとても言えませんが、泥臭くてもひたむきだったような気がします。
子供の頃、母親から、「若い頃の苦労は買うてでもせよ。」と、よく聞かされたものです。必要のない苦労、理不尽な苦労は、実際ないほうがいいとは思いますがが、人生振り返ってみて四苦八苦したことが頑張った思い出となるようであれば、そのような四苦八苦は母が言っていた様に決して悪い苦(苦労)ではないように感じています。水戸黄門の主題歌、「人生楽ありゃ苦もあるさ、涙の後には虹も出る。」も、四苦八苦した先には、それだけのものがあるよと唄っているように思われます。





