父の卆寿
- ishigami-clinic149
- 2025年12月10日
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2年前に母を亡くしてから、父は大牟田で一人暮らしをしています。予定が許せば、日曜日の昼に大牟田に行き一緒に昼ご飯を食べるようにしています。先月は父の卆寿(90歳)の誕生日でした。その日は、大牟田に行く途中でうなぎ弁当を買い、一緒に食べました。

父は昭和10年に台湾で生まれました。昭和19年20年は台湾も空襲があり、子供たちは台湾の山奥に疎開したそうです。私が小さい頃に、父はそこで現地の子どもたちに混ざって行動した話をよくしてくれました。疎開した山奥には谷があって、蔦(つた)の様な植物から作られた吊り橋がかかっていました。蔦の様な植物から木製の桁(けた)が吊られ、桁の上の細い板の上を渡っていくのですが、桁には隙間があり下が見え、渡っていると橋が大きく揺れたそうです。現地の子供は慣れたふうに易々と渡っていたが、小学3年生の父は最初は恐ろしくてなかなか渡ることができませんでした。頑張ってそこを渡って初めて現地の子供たちの仲間に加えてもらったと言っていました。熟したバナナを木から採ってもらって食べたのがとても美味しかった、マンゴーやパパイヤもとても美味しかった、と言っていました。このような話を冒険談を聞くような気持ちでワクワクしながら聞いたのを覚えています。また、学校で勉強しなくてよく、毎日が遊びだったのでとても楽しかった、と言っていたことも記憶にあります。
この写真は静岡県の寸又峡にかかる吊り橋で(この写真では蔦でなくワイヤーで吊ってありますが)、吊られた桁の中央に狭い木の板が伸びており、父が話しをしてくれながら描いてくれた吊り橋もこの様な感じだったことを朧げながら覚えています(幼い頃の記憶も結構残っているものです)。
私が小学生の頃は近くの小学校でキャッチボールをしてくれました。
高校生2年3年時には、父から起こされて、旺文社の大学受験ラジオ講座を毎日朝5時から6時までの1時間聴きながら勉強しました。コタツで双子の兄弟と一緒に勉強しました。父は私たちが途中で居眠りをしないかと一緒にこたつに入っていましたが、途中から父のいびきがラジオ講座の講師の声に混ざって聞こえてくるのか常でした。
働き者で、大牟田の自宅の床を自分で張り替え、壁に手すりを増設していました。
倹約家過ぎるほどの倹約家で、料理自慢でした。
母が病気を患ってからは、父が献身的に母の世話をしてくれました。
うなぎ弁当を食べながら、「自分だけ美味しい鰻を食べて申し訳ない。お母さんにも、こんな美味しいうなぎを食べさせてやりたかった。」と言っていました。


令和3年の年賀状は、正月のお供え餅用の裏白(うらじろ)を父と一緒に山に採りに行った時のことを、令和5年の当院の年賀状は、父からしめ縄結いを教わった時のことを挿絵としています。どちらも小学生の時のことです。
追記:この原稿を父に見てもらいました。ニコニコして父は、「とてもいい父親と誤解されそうだね。」と言いましたので、私は、「そうだね。」と答えました。





